秩序のとれた海 例えば君とふたりで
「赦されたい」
人生に残された音声という音声を掻き集めて作ったような声で彼は言った。
ぼんやりと暮れていく夕空を見ていた。茜色のグラデーション。
ほら、夕焼けがきれいだよ、と僕は言った。でも聞こえない。届かない。彼には見えていないから。とりどりのオレンジも、どれもこれも、僕のことも。なにもかもを見ているような眼には、なにも映っていない。

3日ぶりに口をきいた、とほっとした次の瞬間、その呟きの落ちた場所の途方もない救いようのなさに慄然とした。
背中を向けたまま僕は訊ねた。重くならないように、さりげなく聞こえるように、表面だけを撫ぜた形に響くように。

「なにに?」
返答は期待していなかった。さっきの音波でようやく、生きていたのだ、と彼を認識できていたくらいだから。

「……赦してほしい」
会話としては破綻している。けれど、その破綻ぶりが彼の姿を影絵みたいに浮かびあがらせている気がした。影の源が幻のように消えてしまった気がして、僕は振り返る。
ほつれた人影は部屋の隅にいる。薄暗い室内をあざ笑うようにオレンジが綺麗だ。素知らぬ風。
「志生(しお)はなにも悪くないだろ」
何十度目になるかわからない、救いにならない救いの台詞。荒波の中に投げ込まれる穴開きの浮き輪は、たぶん投げたものの自己満足の気休め止まりだ。
「でも、だれもなにも悪くないのに……」
志生も黙った。
だれもなにも悪くないのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
最後まで口にされることのないSOSは、助けてと縋られるよりつらい。

彼の眼がなにも映さなくなったのとたぶん同時に、僕には見えないものが見えるようになった。
例えば、暗室のような心に不安の種がとめどなく広がるさまが、その種が息吹くさまが、青白い植物が宿り木のように禍々しく、宿主を終わらせようとしているさまが。

神様、と僕は茜色のカーテンを握った。でも、なんと続けていいのかわからなかった。
助けて、でもない。どうしたらいいですか、でもない。

志生の様子がおかしいことに気づいたのは、3か月前。ゼミ発表のペアだった彼。調査資料の分析をしている途中、突然、顔を歪めて「怖い」と鉛を吐き出すように言った。ペンを持っていた手で頭を抱えて「怖い」と繰り返した。
最初はひたひたと足元を濡らすだけだった不安の影はいつしか海になり、成す術もなく3か月。
ネットで調べても、本を読んでも、本人が頑として拒むスクールカウンセラーの助言の語るところも、『決して本人から目を離さないように』。両親が海外赴任している志生の傍には、僕のほかにだれもいなかった。

鉛の振り子に揺らぐ毎日、に疲弊している。だれよりもきっと志生自身が。
暗闇に差し込む光さえ、映らなくなった眼をして。五感のすべてを遮断したような世界で、息を続けたものかどうか、毎秒毎秒迷いながら。
時間は残酷だ、と思う。もう取り戻せないものばかりを、手の届かなくなったことばかりを、きれいに照らし出すから。

さらさらと流れつづける救いようのない時間のむこうにはっきりとうつくしく映るのは、聡明で怜悧だった志生と、そんな志生をひそやかに好きだった僕だ。

静かな音楽が流れる寝室。僕がプラスミドと制限酵素、RNAポリメラーゼの話を終えるころに、ようやく志生は睡眠導入剤が効いたのか、眠りについたようだった。
眠っている気配を何度か確認して、そっと寝室を抜け出した。僕が「眼を離すな」ミッションを開始して間もなく、志生が言ったのだ。眠れるまでなにか喋っていて、と。
なるべくこの世に厳然と存在する事実だけを話した。曖昧なものは、志生を不安にさせるから。必死に毎晩考えてみたけれど、この世の『絶対』の少なさときたらどうだろう。この世で絶対と呼べる数少ないもののうちのひとつ、1+1=2、をどこかで疑ってかかっている僕にとっては特に。

ちいさく口ずさんだ。

I wish I could be the one that can save you
I wish I were the one that can fix you
If something that I have could make you feel better
You can take everything from me without saying a word

神様、と僕はまたなにもない天井を見上げた。志生はどうして、どうして―……。
どうして、あんなに苦しいのですか。

「きょうは3限目と4限目だけだから」
光がむなしく溢れる大学の付属図書館で僕は志生に含めるように言う。
「すぐに戻るから、ここで待ってて。どこへ行っちゃダメだよ」
鞄を両胸に抱えるようにして俯いている彼を置き去りにするのは気が引けたけれど、僕には僕の日常がある。毎日は回る。望まなくても朝は来る。勝手に流れて夜になり、また朝が来る。あぁ、これも絶対、か。この眼で見ることは、保証されていないけれど。

自分の分と志生の分。二枚の学生証をパスケースに戻した。志生の学生証を僕が持っていくのは認証式のゲートから彼が出られないようにするためだ。
閉じ込める、本の籠の中に。まだ元気だったころ。無類の本好きだった志生はわらって僕に言った。資料を館内検索しいていたときだ。
「一生ここで暮らせたら、天国だな」
「僕がおもしろいと思うのは、地下にある電動式書架だけだよ。しかもそこの資料が必要になってくるようなややこしい調査はできればごめんだ」
しかめ面をする僕を、わらっていた。でも志生の笑顔はここにない。もう見ることはないのかもしれない。
細く息を吸って、これも何十度目かわからない根拠のない『だいじょうぶ』を心の中で唱えた。
なんとかなる、どうにかできる。まだ、僕は志生を好きでいられるから。

4限が終わって図書館に戻った。夕暮れの光がひとしく館内を照らしている。
「慧(さと)」
エレベーター横の椅子から、志生が僕の名を呼んだ。精一杯の笑顔で歩み寄った。
夕方は随分と痩せた彼の影をフローリングにそっと伸ばしている。
「ごめんな、疲れただろ。帰ろうか」
パスケースから取り出した学生証を受け取った志生は、静かに頷くと、極力地球上に音を立てまいと努力しているかのようにゆっくり立ち上がった。
キャンパスを外れる道をゆっくり歩く。隣の影は、つぎの一歩が奈落に続いていないことを確認するような歩きかたをしている。

僕は、なにをしているのだろう。
苦しんでいるひとにそれでも傍にいてほしいと願うことは、相手の両手両足を縛って生温い願望の海に沈めることと同義だろうか。
いつか、守りたかったはずのものは、守ろうとした祈りのなかで、音もなく朽ちてしまうものだろうか。
僕は、なにをしているのだろう。
志生を失いたくない。それだけ、なのに。
失いたくないのだとまっすぐに告げることもせずに、優しさのかたちをした手で、いったいなにをしているのだろう。
僕は。僕は、神様にはなれない。志生の、神様にはなれない。この手じゃ志生は救えない。

夕空を見上げた。
神様、の次に続けたかった言葉を僕は見つける。
―……お願い、お願いだから、神様、ここにきて。

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【2018/01/08 08:56】 | お題SS。
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